真竜仁太夫:大阪相撲の伝説的力士
明治から大正初期にかけて活躍した大阪相撲の力士。幕下二枚目まで昇進し、明治27年には優勝相当の成績を残しました。版画にも描かれた文化的アイコンとして、庶民の憧れの存在でした。
詳細を見る
力士としての基本情報
四股名
真竜仁太夫(改名歴あり、「真竜」とも表記)
所属
大阪相撲
活動期間
明治45年1月初土俵、大正2年5月引退
最高位
幕下二枚目
戦績と実力
通算成績
通算16取組で4勝11敗という記録が残っていますが、これは断片的な記録のみを合算したものです。実際の通算成績はもっと多くの勝ち星を含んでいた可能性が高いと考えられます。
優勝成績
明治27年4月場所では7勝1敗1分けという優秀な成績で優勝相当を記録。対戦相手には「宇都宮」「加勝山」「絹ノ里」「日本海」などが記録されています。
明治27年4月場所の栄光
7
勝ち星
優勝場所での勝利数
1
敗北
わずか1敗のみ
1
引き分け
互角の一番
明治27年4月の大阪相撲本場所で優勝相当の成績を残しました。当時はまだ正式な優勝制度が存在せず、後世の研究者が星取表をもとに「優勝力士」を推定しています。仁太夫の優勝は、大阪相撲がまだ独自の興行を行っていた時代の貴重な証拠です。
大阪相撲の歴史的背景
1
江戸時代
大阪相撲は東京相撲と並ぶ大きな勢力として存在
2
明治期
大阪相撲協会が設立され、東京相撲との交流や合併が進む
3
大正15年
完全に消滅し、東京相撲に統合される
真竜仁太夫は大阪相撲が東京相撲に吸収されていった過渡期に活躍した力士です。地方相撲として多くの力士を輩出した大阪相撲の歴史を彩った存在でした。
優勝力士としての位置づけ
真竜仁太夫は大阪相撲で唯一「優勝相当」として記録された力士です。他の優勝力士は東京相撲でも名を残しましたが、仁太夫は大阪相撲のみで活動したため、記録が限られています。
文化的アイコンとしての存在
版画に描かれた力士
須磨海岸を歩く真竜仁太夫の版画が存在することは、彼が単なる力士以上の「文化的存在」として認知されていたことを示しています。江戸から明治期の日本では、版画は「人気者の証」でした。
歌舞伎役者と同等の扱い
風流人としての演出
庶民の憧れの対象
須磨海岸の版画が語るもの
風雅な名所
須磨は源氏物語や平家物語にも登場する風雅な地。明治期には避暑地・観光地として人気がありました。
洒落た装い
黒地に白紋の羽織、青の着物、扇子を持つ姿は、歌舞伎役者や文人の象徴でもあり、力士の芸能的側面を強調しています。
物語性の演出
自然と人物を融合させることで、単なる肖像画ではなく「物語の中の人物」として描かれています。
春齋筆の版画
春齋は江戸から明治期に活躍した浮世絵師で、相撲絵や役者絵を手がけた専門家でした。真竜仁太夫が春齋によって描かれたということは、彼が庶民にとって「絵になる存在」だったことを意味します。
力士絵・役者絵が中心
人気力士や役者を描いた錦絵を制作
風景と人物の融合
名所と人物を組み合わせた構図で物語性を重視
宣伝媒体としての役割
興行や人気を後押しする文化的担い手
真竜仁太夫の遺産
優勝力士
明治27年4月場所で優勝相当の成績
記録に残る存在
大阪相撲の歴史を物語る貴重な証拠
文化的アイコン
版画に描かれた庶民の憧れの存在
スター力士
芸能的・風流的な人気を持った人物
真竜仁太夫は大阪相撲の幕下力士として短期間活動しましたが、優勝記録と版画という形で確かに歴史に名を残しています。彼の存在は、大阪相撲が東京相撲に吸収されていった過渡期の文化を物語る貴重な一端といえるでしょう。
真竜仁太夫の墓
当山正徳寺の墓地内には大正5年の12月に建立された彼の墓があります。
Made with